取り組んだ方々の声

体験談 HUくん(29歳・東京)

どこかがおかしい

自閉症の息子は、今年29歳。3歳の時に自閉的傾向児という診断がついた。

0歳の時は反応の乏しいおとなしい赤ちゃんだったが、1歳を過ぎても片言の言葉も出ない。
1歳半の集団検診で保健婦さんから、多動だしアイコンタクトが取れないので、一度、病院で診てもらうようにと言われた。2歳になって病院に連れて行ったが、小さかったので直には判断ができないとのことだった。
「週に一度の療育教室に通いながら、様子をみましょう」と言われた。
初めての子育てで、育児経験がない私は薄々おかしいとは感じていたが、性格なのかもしれないとも思った。というより普通の子供であって欲しいとの願いが強かった。

言葉のない息子との日々

とにかく私なりに手作りの言葉カードを作って働きかけたり、毎日、公園に行ったりとできることは一生懸命にやった。が、やはり言葉は出なかった。
公園に行っても、他の子供達と関われない。私達は親子で孤立していった。
息子は訳もなく泣き、泣き出すとずっと泣く。こだわりも強い。息子と感情のやりとりができないので、精神的にとても疲れた。
近所の方や公園で知り合った方に、私が話しかけていないから言葉が出ないとか、私の子供に対する接し方が悪いとか…そういう意味合いのことを言われた。
離れて暮らしている母も、心配のあまり電話をかけてきては同じようなことを言った。
中には、「私はあなたよりは、子供に話しかけている」と追い打ちをかける様に、気落ちして言葉数が少なくなっている私に、自信たっぷりに言う人さえいた。
抱えている事情や大変さを理解しようともせず、批判的にも取れるような言葉ばかり浴びせられた。
良かれと思って言ってくれたのかも知れないが、私にはとても大きなストレスにしかならなかった。
息子は一見、障害があるようには見えず、普通の子と同様に成長していたので、母親のアプローチに問題があるとしか取られなかったのかもしれない。
今思えば、この頃は一番辛い時期だった。どんなに一生懸命やっても、母親が悪いと言われた。
また、どうしても他の子と比較してしまい、余計に焦りを覚えた。
一体どうしたらいいのか?かなり精神的にタフな私でも、抑うつ状態に陥りがちになった。
ただ、その一方で「このままではいけない、今のままでは何の進展もない」と鼓舞する自分もいた。
私は、この現実を受け入れて、とにかく解決に向かってできるだけの努力をしようと思った。
まずは、どうして息子がこうなのかわからないままでいるのが、一番良くないと思い、他の病院でも診てもらおうと決めた。
これまでの病院の療育教室は続けながらも、三歳の時、別の病院に行って診てもらった。その時の診断名が、自閉的傾向児である。
『自閉症』って? 親の育て方が関係しているの? よくわからないまま医師に尋ねると、「育て方ではありません。障害ですから」と言われた。障害と言われると、治らないのかと一瞬思ったが、親の育て方と言われるストレスからは、ある意味開放された。
それならば、できる範囲でなんとかしようという気持ちが湧いてきた。
医師からは「少しでも社会に適応できるように努力していきましょう」とも言われた。私は医師の言われることは正しいと思った。
元来、「なんとかしてやろう精神」の強い私は、とにかく、できる範囲でいろいろチャレンジしてみようと決めた。

チャレンジの始まり

先ず言葉に関しては、別の病院に四歳の時から通った。
電車に乗って、当初は二週間に一回ペース、その後は月一回ペース、もっと大きくなったら2ヶ月に一回ペースで通った。
結果、五歳の時、「あーお」とあおという言葉を伸ばした発音を初めて言った。次は「あーか」であった。あ行は出やすい言葉だと言語聴覚士から説明を受けていた。だから、信号を見ては「あおよ」「あかよ」と特に意識して話しかけていた。
それからは徐々に言葉が出るようになったが、発音が不明瞭で、聞き取りにくいことも多い。
言語聴覚士に「発声をするのが不器用」と、説明にもならない説明を受けた。本当にそれだけの理由なのだろうか?と疑問が残った。
訓練はカードを使って単純であったが、親としてはそこからヒントを得ることも多く、勉強になった。
何より言葉が出ても、こちらが質問している意味がわからないようで、会話が成立しない。
「好き? 嫌い?」と尋ねて、せいぜい「好き」と答えるくらいである。息子はそれでも二者択一ができるが、自閉症の子供はオウム返しで、二者択一ができないことも多いのである。
文章化した言葉を使うことは皆無である。
その後、努力した結果、少しは良くなった。後楽園遊園地に行くことになっていると、「後楽園、行く」という具合である。「後楽園に行く」と、助詞を使って言い直させても、その場限りで終わる。
後で触れるが、この頃、言語聴覚士に「本人に理由がわからなくても、お母さんが話す時に、理由を説明しながら話すように」と指導を受けたことは、後に良い結果になった。例えば、「暗くなったから、電気をつけようね」「のどが渇いたから、お水を飲もう」というように。
そのことは常に心がけて接するようにした。
発音の不明瞭さも少しは改善されたが、大人になってもなかなかというのが、実情である。たまに聞き取れないことがあると、言い直させると、わかることが多い。

教育に関してもできるだけのことはした。
A病院の担当者に幼稚園は理解のある所に入れるように言われていた。集団生活も本人の成長に良いとのことだった。
たまたま新聞にある学園の記事が載っていたのを目にした。自閉症児と普通児の混合教育をしている学校である。
面接をして、受け入れてくれるということになったので、学校のある東京に引越しをした。幼稚園から高校卒業まで、その学校に通った。
お金はかかったが、他の学校に行っていたらとてもできないような体験ができた。スキーやスケート、沖縄旅行や京都旅行、グアム、ハワイなどにも行った。
普通の人でも見聞を広めると、そのことが何かの時に活きてくる。また、人格形成に影響を及ぼすこともあるはず。それは、障害があっても同じだと思う。
息子にとっては糧になっているだろう。本人もそれらの活動は、楽しんで参加していた。
因みに、夏休みには必ず寝台列車などのいろいろな乗り物を利用して、学校行事以外に私的にも旅行をした。
次男が行ってみたい所を選んだが、結果的に長男は乗り物が好きだし、どこかに出かけることを喜んだので、このことも良かったと思っている。
次男もかけがえのない子供だ。長い休みの時は旅行や水族館などに共に行き、日頃できないことを親子で楽しんだことは、次男にとっても長男にとっても良い影響があったと思う。
勿論、自閉症の子供を連れ歩く親は大変ではあるが、一緒に楽しんだことはいい思い出になっている。
学校では障害があるからといって可能性を否定しないで、陶芸とか、調理とかも教えてくれた。
もっとも最近、本人が話してくれてわかったことだが、息子は粘土の感触が嫌で、陶芸は嫌いだったとのことだ。
学校の先生は一様に熱心だった。ただ、お世話になって言うのも憚られるが、もう少しゆったりとした学びの場であってもよかったのにと思う。それでも、振り返ってみると、トータルでは良かった。

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